錬金術
ニュージーランドの作家マーガレット・マーヒーさんの2002年に出版された作品。
この方の本を色々と読んでいるとわかるが、初期の作品「足音がやってくる」の現代版リメイクのようだ。
良い年のお婆ちゃんが書いたとは思えないほどティーンの恋愛をリアルに描き、性描写まであるとは驚きだった。
同級生の秘密と奇術師クワンドゥとの緊張感溢れるやりとり。なかなか面白かったのは事実だが、これまでの作品を知っているととてつもなく違和感もある。
相変わらず癖のない文章で、ニュージーランドの自然や広々とした街並みが目に浮かぶような作品だった。
嫌味なく、このレベル感で書ける作家はなかなかいない。ただわがままを言わせてもらうともう一つ想像を超えてほしい。やり過ぎてもいいといつも思ってしまう。
魔法があるなら
デパートに住んでみたい。小さい頃にそんな想像をしてみたことがあると思う。
しかも、閉店後まで店内に隠れて、誰にも気付かれずにそのまま自分だけが店内に残るなんて想像しただけでとってもワクワクすることだ。
しかし、よく考えると、セコムのような警備システムがあるから警報機が鳴ったり、警備員が巡回していてすぐ捕まるし、何かを盗むという目的がなければ長時間滞在しても意外とメリットがないとすぐにわかる。
だからこそ、この本がそんな夢のような話をかなえてくれる。
舞台はイギリス。老舗の高級デパートであるハロッズの重厚感に、セルフリッジの多様性を足したようなスコットレーズデパート。ありそうな名前だが、実際には存在しない架空のデパートだ。
そこに親子3人がこっそり住み着いて、色々と物語が展開される。
物を盗みたいわけではなく、貧しくて行き場がないため、止むを得ず住むわけだ。しっかりした長女は見つかるとまずいから反対し、能天気な母親にイライラしながらも幼い妹と親子3人で離れずにいられるように何とかがまんする。
なぜかクリスマス的な雰囲気が漂うとても暖かい物語で、映画ホームアローン見ているような気持ちになる。
きっとそれは、長女リビーの語りで物語が回顧録的に進むからだ。子ども目線で物事を見て考えるのだが、全然大人の思考と変わらない。むしろ、このとき母親はどういう気持ちだったのかなと、アナザーサイドストーリーが気になるし、ぜひ母親目線でももう一度描いてほしい。
ちなみにこの「魔法があるなら」は実際にテレビ映画となってイギリスのBBCでクリスマスイブに放送されたそうだ。
映像版もとても面白そうだと思う。きっと誰が見てもワクワクする暖かい物語なんだろう。
この本は珍しく、食への描写が多い。割と児童文学だと、食べ物食べるシーンが少なく、こいつらパンとチーズを昨日の夜かじって以来ずっと食事シーンがないけどよく体力持つな、なんてこっちが心配になるくらい忘れられがちだ。
特に美味しそうに食べ物を見せるというアプローチは海外の本だとほとんど見られない。ストーリーが優先で、食事はあくまで生きるために最低限の取るだけのものという位置付けである場合が多い。
この感覚の差は我々日本人と海外の人の差かもしれない。だって日本人は食べるのが本当に好きだから。この本では、色んな料理、食べ物が出てくるがどれもとても魅力的で美味しそうに描かれる。
デパートの中で手に入る食事。それは食品売り場で売られている、いや残っている期限切れのもの。フィッシュパイやバニラヨーグルト、ピザなどありきたりなものだけど、ある意味無人島で食べているような感覚なので、想像するだけでお腹が空く。あったかくて量があるだけでこの状況なら幸せだろう。
ありとあらゆるデパートで暮らすための可能性を講じながら、1週間以上主人公たちは暮らすため、この本を読めば自分もデパートで暮らすことができるんじゃないかと思える位よくできている。さながらデパートに住むためのマニュアル本とも言える。
アマゾンの奥地やジャングルに行かなくても、ピラミッドの奥に隠し通路を見つけなくても、近くでこんな心踊るような冒険がある。おもちゃを独り占めにして、好きなテントで寝て、お店のアイスを好き勝手食べて、常に最高品質の物に囲まれて。だけどそれでも本当の幸せにはなれない。
狭くて、物がなくても、安心して好きな時にいつでも、好きなだけいてもいい家があること。そして家族がいること。
お客として特別な気持ちで特別な場所、スコットレーズデパートにいけること。それは自分たちも一緒であり、大切なことだと思う。
見習い物語 上
イギリスの作家レオン・ガーフィールドさんの短編集。1982年に書かれたものだが、作品自体18世紀のイギリスを舞台に描かれているので、さらに古い感じがする。
むしろ本当に18世紀に書かれた本を読んでいるような錯覚に陥るほど、当時の生活ぶりや街並み、風習が生き生きとに描かれている。
短編集なのに、短編同士が繋がっており、人物や街並みが他の章でも出てくるなど工夫というか遊び心もある。
読んでいて思ったのは、当時のロンドンは地獄のようだなということ。
文化が発展し始めたばかりで人々は欲に満ちており、街は汚くて暗く、貧富の差が生まれ、生活するのがやっとだ。今の世界とは全く違う、荒廃した世界。
生きるのがやっとで、仕事の種類もなく、産まれたときの身分から上がることができない。
この本では、そんな見習いたちが主人公だ。当時は7年間見習いとして耐えて働いてやっと一人前になるという習慣があったそうだ。その間はただひたすらに耐えて、生き抜くということだ。
今で言うところのブラック企業だろうか。
日本でも3年間は勤めてようやく一人前みたいに言われることもあるので、年数で技量を測る点は一緒だ。
多少日本の職人の世界にもまだそういう部分があるとは思うが、労働環境や法律の遵守に特に注目が集まっている現代ではなかなか厳しいところだろう。
ただ、やはり職人の世界では親方の下について弟子として働きながら腕や技を磨くというのはとても大事なことで、1日8時間勤務で後はプライベートの時間を大切にする、なんて甘いことは言ってられない。
それだけ見習いになるというのはプライベートを捨てて、どんな辛いことにも耐えるという覚悟が必要なことだし、当時なら尚更辞めてしまったら他に食べて行くこともできないので、歯を食いしばってでも耐え抜くしかなかったはずだ。
そんな見習いの気持ちを逆手に取って、辞めないし逆らわないというのを良いことに無茶苦茶する親方もいたのだろう。
本当に一か八かの世界だ。やはり、そんな世界でも、そこを天国にするか地獄にするかはそこにいる人次第だ。
きっと今の時代にも当てはまることだろう。
とても読みやすく、古臭さもない良作だと思う。特に、当時の暮らしを知れてとても勉強になるので一度読んでみると良いだろう。
スピニー通りの秘密の絵
アメリカの女性作家ローラ・マークス・フィッツジェラルドさんの作品。「卵の下を探せ」という祖父の死に際の言葉から始まる物語。
とても読みやすく、どんどん明かされて行く謎と近く真実。冒険をするようにとてもワクワクして読めた。
ダビンチコードに近い感覚の本。だけど常に愛嬌とユーモアが漂い、軽く本を読みたいという人には強くオススメできると思う。
登場早々にいきなり交通事故で息を引き取るところから始まるおじいちゃんジャックの過去に関する物語だ。
全ての謎はそこからすべて始まり、含まれている。
宝の地図というテーマのは児童文学において、永遠のアイコンだと改めて思った。そして、私は未だにそのトキメキと興奮の虜になっているんだと気づく。
最後のオチである暖炉の下でお金と共におじいちゃんの手紙を見つける場面は、ずっとそこを探していたはずなので今更気づくかという多少現実味に欠けるが、そうこなくっちゃというカタルシスでもある。
自由に勝ることはない。お金や名誉、誰にどう思われようが、自由を謳歌し、味わい尽くして死ねれば、後悔ないというメッセージにはとても共感できる。
ニワトリというひたすら地面をつつく鳥の習性も、ひとつの人生のメッセージになっていて面白かった。
また母親のキャラクターがとても良い。あり得ないようだけどこんな人実際にいるよなという頭のネジが少しズレているけど、イカれているわけでなく、強烈な目的に向かってただひたすらに集中しすぎて社会性を失った人。
母親としては失格だが、その分その子供はしっかりする。うまくバランスが取れるようになっている。
友達のボーディもいいキャラクターだ。初めての友達が、セレブみたいな設定はやはりワクワクするし、実は孤独を抱えた似た者同士だったりする。
友情もとてもスッキリとアメリカらしく描かれている。日本を舞台に日本人が描いていたら、2人がやたらケンカしたり、妬み嫉み、男の子が登場して関係を拗らせようとしただろう。
日本人は良くも悪くもやたら、そういうふうに内面を深く書きたがる。
そういうのを求めている人もいるだろうが個人的には好きでない。重くなるとストーリーがブレるし、読んでいて嫌な気持ちになるだけなので、こっちは求めていない。そういう点において、この本は満点だ。
顔をなくした少年
「穴」で知られるアメリカのルイス・サッカーさんの作品。
正直、胸をえぐられるような、嫌な記憶が蘇るような作品である。
子供から大人に成長する過程で、誰もが通るジレンマというか、もがきがとてもリアルに描かれている。
日本人でも共感できる人は多いのではないだろうか。アメリカか舞台の作品なのに、どこの国でも結局同じなんだなと思った。
小学校の時にずっと一緒に登校して、学校が終われば一緒に帰り、どっちかの家で遊んで…みたいに仲の良かった親友が、中学に上がると急に目立つタイプのちょっと悪いやつらと話すようになり、そいつらのグループに入る信頼を得るために、ダサい昔の友達を避けたり、いじめたりする。
そんな経験、みんなあるはずだし、自分はなくても見てきたはずだ。
アメリカ的にいえば、ダサいオタクかクールなやつかのふたつだ。
主人公はダサいやつってことではないが、クールではないタイプ。
ティーンネージャーのドラマを見ているような1冊だ。
だから、とてもイライラする。不甲斐ない昔の自分を見ているような気持ちになり、ガツンと嫌なことは嫌だってハッキリ言ってやれ!と叫びたくなるだろう。
まるで映画のバックトゥーザフューチャーで、いじめっ子たちに逆らえない主人公を見ているのと同じ不快な気分だ。
当然、その不快な気持ちは最後にスカッとさせるための長い長いフリである。
この作品でも最後はスッキリさせてくれるのだが、男女の恋も絡んでいるので、とても羨ましいラストになっている。
ある意味これこそがファンタジーとも言える、男性ならきっと羨むエンディングがイライラの最後に待っている。
途中まで、これは何を読まされているのだろうと思うはずだ。
タイトルにある「顔をなくした」という意味は、平たく言えば、面目をなくしたということである。
周りに合わせたり、トラブルを避けたり、自分に言い訳ばかりしていたら、顔をなくす、つまり自分がいなくなるのと同じなんだと気づく。
今生きている人でも、思い当たる人は多いのではないだろうか。そんな人は一度この本を読んでみてもいいかもしれない。
ずっと自分を持って、強靭に生きてきたという人は読まなくていいが、そんな人はきっと少ないだろう。
骨董通りの幽霊省
イギリスの作家アレックス・シアラーさんの作品。ここまで幽霊にぴったり焦点を当てて書かれた作品は、同じくイギリスの作家ジョナサン・ストラウド氏の「ロックウッド除霊探偵局」以来だ。
イギリスでは日本のように幽霊が身近な存在であり、テーマモチーフになるのだろう。
やや大人が読むには捻りがないというか、品行方正すぎるというか、よく言えば分かりやすくてスッキリ読みやすかった。
幽霊省というアイデアですでにある程度の面白さは担保されており、あとはあっと驚くどんでん返しを用意さえすれば良いというのは素人目にも分かるものだ。
まさにその通りの流れなのだが、オチである、幽霊省で働く職員全員がすでに死んでいて幽霊だったという肝の部分は、もう少しうまく隠して欲しかったとも思う。
早い段階であれ、コレはそうなのかなと匂わせていたので、オチが想像できてしまった。ただ、特定の1人が幽霊なのかなと思っていたので、まさか全員とは思っていなかった。ある意味、ちゃんと裏切られたのだが、もう一つ残念なのが、幽霊を探すアルバイトとして雇われた男の子ティムと女の子トラパンスについて。
ほぼこの子たちが主役なのに、あまりキャラクターが深堀されず、魅力があまりにも表面的だったことが悔やまれる。
また、もう少し幽霊探しにおいて、可能性を示唆して欲しかった。ずっと幽霊は見つからない、いないという前提で展開されすぎて、期限のカウントダウンがされていのにハラハラしないのだ。
幽霊はいるし、目の前に現れるけど、どうやって捕まえたらいいか分からないという前提にした方が、展開がよりダイナミックになったはずだ。
その点では、ロックウッド除霊探偵局には巧さは及ばないが、幽霊と一緒に仲良く住み続けるという苦し紛れとも思える最後のエピローグは嫌いじゃないし、これがないとオチ頼み過ぎて余計に安っぽくなっていたかもしれない。
そういう意味で、全体的には悪くなく、読んで損したとは思わない良作だと思う。
魔女と暮らせば
とても面白かった。今まで読んだダイアナ・ウィン・ジョーンズさんの作品の中で1番面白く感じたかもしれない。
なぜか随所から「ハウルの動く城」の感じが醸されていたが、それもまた悪くない。
姉のグウェンドリンと弟のキャットの姉弟が両親が亡くなったことから親戚の大魔法使いに引き取られ、かなり良いテンポで物語が展開する。
ネタバレになるが、まさか姉のグウェンドリンがあんなにも悪いやつだったとは意外だった。いや、悪いというか身勝手で自己中心的というべきか。さすがに自分のためであり、そそのかされたとはいえ弟を殺してしまうことに賛成するというのはあり得ないのではないだろうか。
また魔力を弟からこっそり貰っていたなら、弟が死ねば魔法が使えなくなっただろうし。
大魔法使いに引き取られるまでの前半、大魔法使いの城に行ってからの反抗、姉が別次元の世界のもう1人の別の自分と入れ替わってからの中盤、大魔法使いの秘密に関して敵とごちゃつく後半。ずっと飽きず、ハラハラされられた。
この作品は1978年にガーディアン賞を受賞しているが、2018年に読んでいても全く魅力が色あせていない。こういう作品に巡り会えるのも出会いであり、読書の楽しみだなと改めて感じさせられた。
七つの封印 4 黒い月の魔女
カイ・マイヤーさんによる七つの封印シリーズ第4弾。相変わらずの読みやすさだか、絶体絶命からのドンデン返しにはそろそろ飽きてきた。
やはり魔女や魔物と戦うのに、ただの特殊能力のない子どもでは知恵にも限界がある。敵は子どもだろうと殺そうと本気で向かってきているのに、逃げ回るだけでは面白みにもかける。
漫画ワンピースのごとく、敵が近づいて腕の印が反応した際くらいは、敵を倒す能力が発動してもいい気がする。そのほうが、ずっとワクワクするだろう。
もちろん、名探偵コナンのごとく、力はなくとも知恵で解決してもいいが、毎回思いついたプランが失敗することなく上手くいくだけでは芸がなさすぎる。
舞台であるドイツでは月のクレーターの模様がウサギではなく、薪を背負った男に見えるとされているそうで、その薪男と主人公たちは今回戦うことになる。
アイデアや発想、展開は見事だ。このシリーズは児童向けのため、文字数がかなり少ない。相当テンポよく飛ばしていかないと書きたいことが良いバランスで尺に収まり切らなくなる。
毎回、物語の導入には驚かされる。自然な流れで無理なく読者に設定を受け入れさせる。そのままノンストップでラストまで駆け抜けるのであっという間に読み終わる。
ただ、先ほども言った通り、そのパターンに頼りすぎだ。軽さをどこまで払拭し、深められるのか。今後に期待だ。
歩く
「穴」(1998年)で一躍有名になったルイス・サッカーさんの作品で、穴シリーズの3作目であるこの「歩く」(2007年)。
「穴」は出た当時すぐに読み、あまりの面白さに衝撃を受けた作品だ。ただ、その後、映画化もされたが、それも見ず、最近まで思い出すこともなかった。
たまたま目について読み始めたのがこの「歩く」なのだが、また全然違った話だけど面白かった。シリーズなので、「穴」で出てきた登場人物や設定も少し出てくるので、やはり「穴」は読んでいた方がより楽しめる。
素晴らしいのが、主人公や周りの人たちがとても人間的に優しく、素直なので、安心して子供に読んでもらえる点だ。ただし、恋愛要素も入ってくるので、多少の英語3文字くらいは我慢しなければならないが、言葉だけでそういう変なシーンもないので安心してほしい。
この本を少年院に置いておけば、多少は真面目に生きようと改心する人もいるかもしれない。アメリカのリアルな退屈さと非現実的なスターや一部の人だけが受けられるセレブな生活が、巧みに混じり合い。魔法やドラゴンが出てこなくても、それが現代的なファンタジーとして成立しているのがお見事だ。
「穴」にあった棘はなく、とにかく素直な作品である。
ボディガードであり、歌姫であるカイラから最低に嫌われているフレッドは、実はカイラの本当の父親で、ずっと近くで見守っていたというオチなのかなとも思ったがどうなのだろう。
また、何年後かに主人公とカイラが出会い、一緒になれるといいなと不思議と思ってしまう珍しい作品だ。普通、男女の恋愛が描かれると、別れてくれて良かったとなぜか思ってしまうものだが、この作品は違う。
語感やテンポもよく、感情にも常に共感でき、とても読みやすい良作だ。
次は読み飛ばした「穴」シリーズ2作目である「道」を改めてちゃんと読もうと思った。
魔空の森 ヘックスウッド
ざっくり言うと、ある森の周辺で起きた異変から物語が始まり、次々と意外な事実が明らかになってくるという話。
世界を救うわけではないが、悪いやつをやっつけて新しいまともなやつに取って代わるという感じ。
正直、かなり読みにくかった。物語の進行スピードがとても遅く、さらに時空までネジ曲がったり、人の記憶まで操られるものだから、何が事実なのかわからないまま、読者はその情報を一生懸命抱えて、たらい回しにされるからたまったものじゃない。
さすがに最後の方は、情報を抱えるのをやめて、もう読んでいるだけに近いときもあった。それくらいたっぷり時間をかけて読まなければならいほどボリュームが多い。
伏線もラストに明らかになる大きなものを除いてほぼないので、あまり考えずに読んでも問題ない。
レイナー一族が何なのか、結局あまり描かれなかった。これは読者に想像して欲しくてあえて情報を少なくしていたと思うが、個人的には少なすぎた。もっとそこを膨らませないと、戦う意味や守る意味が薄っぺらく感じた。あっけなく死にすぎだし、なぜそうしていたのかが本当に不明だ。ほぼ、村人1みたいに何の特性も恐怖も感じられない様は、ある意味斬新だった。
逆に言うと、だからこそ面白いのかもしれない。日本人ならきっとそこをある程度きっちり丁寧に書いてしまうだろう。あくまでファンタジーであり、小難しい設定や理由なんて必要ないのだ。
子供の頃、頭の中で想像して物語をただただ楽しくつないでいっていた感覚。まさにそれがファンタジーの原点だと言えよう。
頭の中で王様から騎士、庶民に奴隷を作り出し、それらが次々と自分に語りかけてきて、1人だけど頭の中で会話していた経験のある人は多いはずだ。それがこの物語の肝となっている。
騎士ならドラゴンを倒すし、城にはキレイなお姫様がいて王子様を待っている、独裁的な権力を握るやつは倒すべき悪者であり、人間はちっぽけで森や自然は大きく尊い。そこに理由なんてない。ルールだからだ。
魔空の森というタイトルに相応しく、読む者の頭の中までねじ曲げられる。そんな作品を描けるダイアナさんはさすがだと思う。ただし、ワクワク感は全くなく、作業ゲームに近い地味な作品といえる。
牢の中の貴婦人
設定を把握しようとしているうちに最後まで来て、やっと状況を飲み込めたと思ったらあっさり終わった。
絶妙な配分である。まったくロマンチックさがなく、どこまでも現実的だ。
気付いたら幽閉されていて、記憶が曖昧で周りの状況すらわからない。そもそも知りたくても聞くことのできる、接触できる人間が限られているからパズルのピースをひとつひとつ手に入れて、どうにかくっつかないか気長に試し続けるしかない。
だからこそ、苦労して最後に状況やいま何が起きているかを知った際には、とんでもないご褒美や衝撃が待ち受けていると期待してしまう。しかし、現実はむしろ逆だ。閉ざされた空間で、ひとりで考えていると夢を見るようになるのかもしれない。私はどこかの国のお姫さまで、王子様と出会い、ここから私を助け出してくれると。
そんな女性の中にある少女のような気持ちを少し皮肉るように、うまく利用して物語に仕上げ、今では真似できないようなクラシックだけど新しい切り口の物語に仕上がっている。
主人公と同じく、読者までもが大事なキーワードを逃さないように、むしろ主人公より先に状況を理解してやろうと躍起になって本を読み進めるだろう。だからこそ尚更あっというまに終わってしまうのかもしれない。
ヨーロッパの修道院などでは昔から男児に対して性的な対象として見ることがあった。そういうキャラクターがこの本の中にも出てくるが、ロリコンともゲイとも違う、むしろ最も純粋で美しいことのように描かれている。いま読むととても不思議だが、それによりそのキャラクターの性格が一気に際立ち、輪郭を持つのが面白い。
それにしても囚われていた主人公は一体どこの誰だったのだろう。
ダークホルムの闇の君
まず読み終わった感想を言わせて欲しい。なんて読み難い本なんだ。
内容や設定などは他に見たことないほど斬新で、さすがダイアナ・ウィン・ジョーンズさんといった感じなのだが、日本語訳があり得ない角度で酷い。きっとあえて日本でもあまり日常で使われていない言葉を選んでチョイスしているようだが、難しすぎる。私自身、色々と古い本も読んできたがこんなにも言葉を理解するのが難しく、読み進めるのに不安を感じたことはない。まるで日本語に訳された古文のようだ。
さらに、理解を阻む要因となっているのが、登場人物の多さだ。挿絵もほとんどない状況で、最初から覚えるのが不可能なほど普通の人間ではない、様々な特徴や肩書きをもつキャラクターが続々と登場する。誰が誰だかメモをとって早見表を作らなければ名前と人物を一致させることは至難の技である。主人公であるダークの子供がグリフィンだということを理解するまでにしばらくの時間を要したくらいだ。どのキャラクターが重要で頻出頻度が高く、名前を覚えなければならないのか。そこの見定めにはセンスが必要になってくる。逆にここまでユーザーフレンドリーじゃない設定は海外だから許されるのだろう。日本だと編集者が指摘して人数が減るか、名前を出さないか、覚えやすい名前に変えるか、何らかの処置がされると思われる。
また、難しいことに、内容がビジネス社会の仕組みについても含まれている。つまり、商いの仕組みを軸にして物語が展開されるので、社会人なら自ずと理解できるが、小中学生にはまず何が起こっているのか、何が問題なのか、事態に気付けないだろう。
だからこそ、この3つの難点を超えたときに得られるこの本だけの面白さは格別だ。読み終えたときに、妙な達成感があり、高揚感すら感じた。
まずは難解な登場人物の名前とどこの誰なのかを覚えることさえできれば、すっと読み進められるだろう。オススメする。
この本で印象的だったのは、会話のうまさだ。主人公である魔術師ダークの子供達の話す言葉は、まるで目の前で見ているかのごとく自然で、気持ちいいほどすっと入ってくる。わざとらしさがまったくなく、相手への深い感情まで言葉から感じられるくらいだった。これはむしろ翻訳者の手柄かもしれないが。
もしも魔法世界への体験ツアーに行けたらという風変わりなテーマを、テンポよく、良いラインの伏線を張りながら、会話で状況を表して展開する。最後はこのツアーを何とかやり遂げて終わりなんだろうと、読者は最初から分かって読んでいる。つまりゴールはひとつなのだ。だからこそ、飽きずにずっと緊張感を保つには、次々と事件や衝突が起きないと緊張感が保てない。実に設定で満足せず、よく考えぬかれた作品である。
残念なのは、間違いなく小学生にはこの本は読めないことだ。
メッセンジャー 緑の森の使者
どこか人里離れた森の先にある、迫害された人たちが集まってできた村を舞台にして物語が展開される。
何とも言えない不思議な魅力のある作品だ。牧歌的でありながら、偽善的ですぐに崩壊しそうな危うさを含む。どこか新興宗教の人たちの集団生活を見ているような感じだ。現実と違うのは森が意思をもっており、そこを通ろうとする人を容赦なく抹殺してしまうことだ。
その森を自由に行き来することができるのが主人公の男の子。タイトルの通り、村では中と外の世界を繋ぐメッセンジャーとして活躍している。村では誰もが何かしらの役割を与えられ、活躍しているという設定だ。
文章は分かりやすく、すぐに読み終えることができる。
ラストは多少そっちかぁと思うとこがあると思う。ただ、自然の厳しさや神秘さ、人々の持つ原始からの恐れのような部分をうまく取り入れており、詩のような世界観だった。
結局、災いの元凶ともいえる、トレードの元締めは、どのような能力を持ち、何を考えていたのか気になる。彼も何かしらの魔法が使えたのだろうか。いや、ここでは魔法ではなくハンター×ハンターや鋼の錬金術師で出てくるような能力に近い気がする。
特にトレードには、手に入れたいものとそれに見合った対価、犠牲を払わなければならない。それは悪魔の契約なのかもしれない。契約することで、ある種の特別な力を得て、願いが叶う。
まさにラストがそうだった。何かを得るには何かを失う。
アメリカの作家ロイス・ローリーは人生における哲学や人間の力の限界、人々を惑わす本来必要ではないはずのガラクタ、自然への畏怖のようなものを美しく伝えたかったのかもしれない。
嵐の王 3 伝説の都
長い冒険を終えた気分だ。ようやく長い悪夢から目覚めた気さえする。三部作のラストは前作である天空の少年ニコロに近い。世界を救う、変えて、みんなまたそれぞれの道に進み出すというキレイな終わり方。
そこまでには数々の修羅場や生命を賭けたシーンの連続だった。まさにノンストップ。登場人物は全員、誰がいつ死んでもおかしくない状況だった。
オチをざっくり言ってしまうと、嵐の王である童子が第三の願いを使って魔人を消し去り、世界に平和が訪れるというだけのこと。ただそれだけのことなのに、どうしてこうもハラハラと手に汗を握らせられるのか。何人もの人間が無惨に死に、何人の魔人が刻まれ死んだのか。
そもそも主人公ターリクの片目はいまいる世界とはもう一つの本当の世界を見る力以上のことはなかったし、ターリクの弟ジュニスはどうなったのか、魔人たちは何のためにどうやってガラスの大地を切り取り浮かして持って行ったのか、魔人は消えても魔物は存在し続けることは問題ないのか、アマリリスは椅子に座り何を願おうとしてたのか等、疑問に思うことはありすぎるくらいある。何たってあんなに大風呂敷を広げて、常にissueと謎を振りまき続けたのだから仕方ないことだ。
色々と荒削りで、あの設定やシチュエーションは必要だったのかと思う部分もあるが圧倒的に面白かった。海外ドラマを全シーズン見終えたくらいの高揚感と達成感を味わえるはずだ。
常に話が重く、終末観が漂う殺伐さに、読み進めるのが辛いことも多々あったが完走して損はなかった。むしろこれでようやく安心して眠れそうだ。
一つ残念なことがあるとすれば、これで作者であるカイ・マイヤーさんの本を最新刊まで読み終えてしまったことだ(2017年9月現在)。
つまりもうこれ以上の新作がなく、過去の本を漁るしかなくなった。厳密に言えば、カイ・マイヤーさんは割と筆が早く、本国ドイツではこの嵐の王の後、すでに数冊新作をリリースしている。それもかなり面白そうなシリーズものだ。ただ、日本での和訳及び出版がされていない状況なため、楽しむことができない。
どうか、早く新作を日本で読めるようにしてほしい。
第三の願い風に言うならば「願わくば新作よ早く発売されし」
七つの封印 3 廃墟のガーゴイル
テレビゲームにしたら面白そうなストーリーだった。七つの封印シリーズの三作目。毎回、実は登場人物のキャラクターや個性を持ってストーリーを引っ張るということはあまりなく、敵を中心にブンブンとストーリーが激しく展開される。
だから基本的には防戦から反撃に転じるというテンプレとなっている。まあ子供対モンスターなのでそのパターンが王道であり、ここから外れたストーリーを描けば世間からは斬新だと高く評価されるかもしれない。
もはやこれは魔人であり、知っているバーティミアスのようなずる賢いタイプではなかった。ただ今回はガーゴイルが一体ではなく数え切れないほどたくさん登場し、全員が牙をむいて襲ってくるわけではない。むしろ、あまり攻撃はなかったくらいだ。
ガーゴイルというものは元々魔除けであり、雨どいを伝ってきた雨水を壁から這わすのではなく、少し遠くに吐き出すだすために工夫された彫刻だ。つまり、ガーゴイルを作る彫り師が存在するわけで、その彫り師との物語を含めた不思議な話となっている。
襲われて撃退というベタな作品をカイ・マイヤーさんが子供向きとはいえ書くはずがない。らしさ溢れる、少し胸がほっこりする作品だった。タイトルには廃墟とあるが、厳密にいうと廃墟ではない。もっと文化的、歴史的建造物なのでもう少し違った言い方が欲しかった。
最後にこの写真を見てほしい。たまたま見つけたフランスのある場所の彫刻だが、前作の悪魔のコウノトリに、今回のガーゴイルが並んでいるように見える。これは偶然なのか、それともよくある組み合わせなのか、とても有名な彫刻なのか…詳しくは知る由ないが、とても興味深く、愉快だ。